阪神・淡路大震災から28年/NHKより
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230116/k10013950571000.html
28年前の午前5時過ぎ。
私はそろそろ出勤の用意をしようと布団から出る寸前でした。
突き上げるような振動の後に長い大きな揺れを感じて、心臓はバクバクしていました。
何を考えていたのか?混乱した私は窓を開けたまでは良かったのですが、ガスの臭いが外からしているにも関わらず、
お湯を沸かすためにガスコンロに火をつけていました。
食器は1つだけ割れていましたが、床がフローリング材だったので棚が滑って一緒に揺れたことで被害がなかっただけでした。
ピアノもエレクトーンもフローリング材のおかげで滑って前に出ていただけ。
ただ、長男が眠っていた部屋はじゅうたんだったので、勉強机が対面の洋服ダンスに倒れかかった状態で、その下の布団の間に長男は眠っていましたが全く起きていませんでした。
慌てて、親の安否確認をしてほぼ揺れなかったことと聴き「元が竹林だと違うのかな?」と出勤するために実家近くの保育所に下の2人の子どもを預けに行きました。(確かに保育所はなんともなかったのです。)
ただ、当時、勤務していた築後1年足らずの発達支援センターは壁にヒビが入っており、車寄せの下のタイルが盛り上がっていました。
もちろん、目の前の大阪モノレールの柱にもヒビが入っているのが確認出来ました。(すでにモノレールは運行をやめていました。)
発達支援センターの目の前は大阪中央環状線が走っているのですが、東西とも車が動きません。
(私は出勤経路が市内の道路でも生活道路だったので、車の渋滞に気づきませんでした。
後になって「千里中央から蛍池まで8時間かかった」という同期の話を聞いて驚きました。)
発達支援センター勤務のバスの運転手さんが被害がひどかった東灘区にお住まいで2週間ほど安否確認が出来なかったので、園長はバタバタしながらも
一旦、1月17日は保育所や学校に子どもを通わせている職員を昼で帰宅させてくれました。
とはいえ、公務員はこのような非常事態になれば家族を置いてでも出勤することが仕事です。
発達支援センターも安全確認後には避難所指定されたのですぐに出勤したのですが、療育はしばらく中止。
私たちは万が一避難してこられる市民がおられたら受け入れ出来るように待機していました。
幸い、発達支援センターがあった近隣は被害もほとんどなく避難者はおられなかったので、職員は被害が大きく出た市内の南部の避難所に応援に行くことになりました。
28年前の1月17日の【阪神淡路大震災】で何が危険か?を痛いほど経験したにも関わらず、その後も震災があるたびに愚かな行いを選択してしまう私たちは、今一度、周りを振り返りながら後世に安心を残すための選択をしなければいけません。
ただでさえ、大地震がいつ起こってもおかしくない日本列島の上に生きているのですから、、、、、
3月11日には、【東北地方太平洋沖地震】から12年です。
なんの解決方法も見つからないまま、今をむかえています。
喉元過ぎればではなく、子どもたちが安心して生きていけるような選択を大人はしないといけないなぁと改めて心に強く思います。