「ノートが取れない」中学生。日本の子どもたちの読解力はなぜ落ちたのか。
この記事はBI PRIME記事です。2020年以降は有料サポーターのみお読みいただけるようになります。
2019年12月に発表されたPISAの結果で、日本の読解力の低下が大きな話題となった。以前から日本の子どもたちの読解力低下を指摘してきた、国立情報学研究所教授であり「教育のための科学研究所」代表理事・所長も務める新井紀子さんに、この結果をどう受け止めるのか、さらにそもそもなぜ「読解力」が必要なのかを聞いた。
聞き手は統括編集長の浜田敬子。
浜田:12月に発表されたPISA(15歳を対象にした学習到達度調査)で、まさに新井さんが指摘され続けてきた日本の読解力の低下が表面化しました。
PISAとは:世界の15歳を対象に、3年ごとに3分野の力を調べる経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査。12月に発表された2018年の調査結果で、日本は読解力で平均点が落ち、順位も前回(2015年)の8位から15位に下がった。
新井: 今回順位が下がった、ということ以上に、この結果に関して「戦犯は誰だ?」といった記事の多さが気になりました。文部科学省やSNSに原因を求めるような。さらに読解力のために、1人1台タブレットを導入すべし、という拙速すぎる結論の多さには呆れました。明後日の方向に議論が進んでいることに危機感を持っています。
浜田:PISAの結果を受けた有識者のコメントには、「日本はICT教育が不十分だからだ」という指摘が多かったです。問題を解く際に使うコンピューターに慣れてなかった、そもそもコンピューター教育が遅れているからだと。
新井:PISAの数問を解くための「慣れ」を身に着けることが目標ではありませんから、その議論は本末転倒です。しかも全く科学的じゃない。なぜなら前回(2015年)もコンピューター調査だったのに、読解力は8位でした。そこから順位が落ちた理由にならない。
2つ目は数学・数理リテラシーと科学リテラシーも同じコンピューターでの回答なのに、それぞれ6位と5位です。しかも1人1台タブレットを導入しているフィンランドでも順位が落ちています。1人1台タブレットを配ったらPISAの順位が上がる根拠が何もない。
では、どうしてICT教育のせいにしたいのか。
前回のPISAショック(2003年、2006年に3分野で大きく順位を下げた)の時に、フィンランドなどを視察した上で対策を講じ、全国学力調査を指導してV字回復させたと言われている人たちは、対策には一定の効果があったとしたい。そのためには他に戦犯を探さなければいけなかったのではないでしょうか。
〜政権にとっても景気浮揚策として「1人1台タブレット」は魅力的でしょうし。
【ノートの取り方がわからない中学生】
中学生になっても板書が写せない子どももいるという。「読む」「書く」という行為ができない子どもたちが増えている。
浜田:新井さんの著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』『AIに負けない子どもを育てる』を読むと、むしろ読解力を上げるには、板書をするなど「書く」行為をさせること、つまり「昭和的」な教育の方が効果が上がった実例が書かれています。ICT教育を進めて、読解力が上がるとは思えないのですが……。
新井:「書く」行為はそもそも人間にとって不自然な動作であると認識して欲しいのです。世界には8000とも言われる言語がありますが、書記言語(文字を持つ言語)はごく限られています。しかも歴史も浅い。「読む」「書く」はプログラミング同様に不自然な行為ですから、その時代と環境と要請にしたがって、カリキュラムを構築して確実に身に着けなければなりません。
けれども、私たち大人たちは自分が子どもだった時代に、読み書きを「自然に」身に着けたと思い込んでいます。ですから、自分たちの子どもの世代も、放っておけば「それくらいは」できるだろうと信じています。でも自転車もただ乗れるようになるわけではないのと同じように、字を書くというのは相当な集中力とトレーニングが必要なのです。
実は、今の子どもの多くが、中学生になってもノートが取れません。ノートの取り方自体がわからない。成績下位の生徒だけでなく、中の上の生徒でもそうなんです。板書を写させると、写すことに「認知負荷」がかかりすぎるので、先生の話が聞けなくなります。板書に認知負荷が全て持っていかれてしまい、先生の話が聞けない状態なのです。本来ならば小学校3、4年生くらいまでに、先生の話を聞きながらノートが取れるようになってほしいのですが、それが難しい状況になっています。
先日訪ねた小学校では、5年生で自分の名前を漢字で書けない子が半数いたんですよ。
浜田:普通の公立小学校で、ですか?
新井:はい。理由の1つはキラキラネーム。小学校での配当漢字にない画数の多い名前が多いんですね。
さらに今の子どもたちは手先が不器用なんです。手先を細かくコントロールしなければならないタスクが家庭内で減っています。そのまま小学校に入学してくると、雑巾を絞れない、トイレでお尻を上手に拭けない。その状態では字をマスの中に書けない、定規で線を引こうとしても定規が斜めになってしまって上手く線を引けない。だから「ノートに定規で線を引いて」と指示すると、全員が書き終わるまでに何分もかかってしまう。
浜田:そうすると先生の話が頭に入ってこないわけですね。
新井:そうです。定規で線を書くのでいっぱいいっぱいになってしまいますので。そうすると先生も困って、ノートを書かなくてもいいように、プリント中心の授業にしてしまう。プリントだと、穴埋め部分しか字を書かないので、ますます字を書かなくなり、手先がコントロールできなくなるという悪循環が生まれているのです。3年生でこういうことがしたい!と先生が思っても、それができない状態です。
〜テレビ離れで瓦解した「同じ語彙」という前提
【スマホやタブレットの普及は、情報の取得をパーソナライズ化させた。】
撮影:今村拓馬
浜田:そもそも読解力、とはどんな能力なのですか。
新井:「読解力とは何か」については、ご宗旨がいろいろあり、ひとつに決めることはできません。ただ、PISA調査で目指している読解力は、複数の情報、複数の長文を批評的に読んで、自分の立場を明確にすることが求められている。15歳が今後生き抜いていく上で目指す読解力としては正しいと思います。
ですが、このレベルの読解力に突然持っていくことはできないわけで、その前に基本的な読み書きができないと困るのです。グループディスカッションをさせるにしても、クラスメートの話を聞きながらまとめるとか、メモをするとかいう能力は必須になるわけですから。
改めて文章が読める、とはどういうことかというと、まず字が読め、その次に単語レベルで読める。教科書が読めるためには、読むために必要な語彙量の95~98%くらいはなくてはなりません。
例えば「徳川家康」などの初めての言葉に出合った時も、他の言葉が分かっていれば、「徳川家康っていうのは、徳川幕府を作った人で……」と分かり、新たに徳川家康という語彙を獲得できます。まず「これは人の名前なのか、物の名前なのか?」という分類が大体できなければ厳しい。分類ができるためには、幼児期の、字を書かない段階で、耳から聴く語彙が相当量ないと厳しいでしょう。
私たち世代(40代以上)は主に家庭の会話とテレビとラジオから語彙を獲得してきました。例えば「水戸黄門」を見ていたから、印籠とかお代官をある程度共通認識として知っていた。「まんが日本昔話」の視聴率は30%程度でしたから、就学援助を受けている家庭も含めてほとんどの子どもが見ていました。ラジオとテレビには、階層に依らずに語彙量を揃える上では、メリットがあるんですね。
ラジオとテレビ離れがここ10年で一気に進み、みんなが同じ語彙を持っているという前提は、瓦解したと言っていいと思います。
かつてはラジオやテレビの天気予報が「今日は雨が降りそうだから傘を持って行きましょう」とか、「今日は10度下がりそうだから、1枚多く着ましょう」と言うのを聞いて、共通の行動につながっていたと思うんです。
今おそらく多くのお母さんは天気予報をスマホで見て判断をする。それを子どもは共有できない。常識による推論、という共通認識を持つことがとても難しい時代になっています。
浜田:そうなると、例えば職場などで上司がある指示を出した時、人によって推論することが全然違う、行動が違うといった事態が起きてしまうということですか?
新井:どういうことが起こり得るか、といった推論パターンがパーソナライズされすぎているせいで共通認識が持ちにくいので、そこの擦り合わせに非常にコストがかかるんです。言葉で言っても伝わらない、伝えようがないという状況が今起こりつつあるのかなと。
小学生で言えば、入学時の語彙が圧倒的に足りず、推論もバラバラ。そうなると先生の指示が分からない。学校生活を送らせるための基本的なルールを習得させるのに、あまりにも時間がかかってしまう。1年生が字を書き始めるトレーニングが半年くらい遅れてしまうんです。
浜田:深刻な状況が小学校で広がっているんですね。
【景気浮揚策としてもあがっている小学校からの1人1台タブレット政策。小学校からのタブレット導入には効果より弊害の方が大きいと新井さんは言う。】
Shutterstock/aodaodaodaod
新井:核家族では、会話をする大人も限られる。新聞もとっていない、カレンダーやアナログ時計もない家庭も多いです。小学校に入るまで数字も字も見たことがない、1週間が何日かを知らない、という子どもも増えています。キャッシュレスが進めばお釣りの計算もできなくなる。便利になることが、子どもたちの自然に学ぶ機会の損失になることを、私たちは考えてこなかったんですよね。
浜田:新井さんが指摘されている「便利なテクノロジーの進化で失われた能力」ですね。そういう状態で小中学校に、1人1台タブレットを導入すると、どうなるんでしょう。
新井:これはもう終わりだなと。特に小学生には絶対、タブレットは良くないと私は確信しています。
実際、先進的に導入した私立学校や家庭で既に弊害が出ています。小学校からタブレットドリルで学ぶと、紙や長文にはもう戻れないんです。意外なことですけれども、検索すら自分ではできなくなる生徒が出てくる。 学びが非常に“消費的”になるのでしょう。 けれども、大学や社会で求められる学びは“生産的”な学びなので、タブレットドリルで育った子は立ち直れないほど挫折してしまう。
浜田:新井さんも関わっていらっしゃる板橋区の実例で、実際に読解力が上がっている授業では、ICT教育とは無縁の、新聞記事を読んでその要約を書く、という「昭和的」な方法で成果を上げています。実際の現場とは違う政策がなぜ進んでいくのでしょう。
新井:現場を見ていないからだと思います。タブレット導入で今まで7時間かかっていた授業が2時間で終わり、残りは深く考える時間に当てる、というような授業は、麹町中学校のようなある意味「特殊な環境」の学校だけでできることだと思います。保護者も経済的な余裕があり、民間からも支援が集まるような私立学校並みの環境が整っている。それが本当に地方でもできるのかを検証せずに、タブレットという言葉が一人歩きしています。
しかもローマ字入力ができるのは、小学校5、6年生なので、それまでキーボードは使えません。その間一体何をやるんでしょうか?
〜格差を解消する手段としての公教育
【公教育は格差を解消する手段だと、新井さんは指摘する。】
撮影:今村拓馬
浜田:新井さんは、AIの時代になるからこそ、人間は「読解力」が必要だとおっしゃっています。なぜ「読解力」なのか改めて教えていただけますか?
新井:読解力は目標ではありません。読解力は、よりよく学んでいくためのスキルです。学び続けることが求められる21世紀社会に必須なスキルだという位置づけです。
先ほどもお話ししたように、読み書きは人類にとって不自然な行為ですが、21世紀の知識基盤社会においてはその能力の質によって、人生が大きく左右されてしまう。だから、どうしても全員に身に着けさせなければならない。
浜田:読解力があって教科書をきちんと読める状態であれば自力で学ぶことができると。それができれば親の経済力の格差も都市と地方の格差も乗り越えられるとおっしゃっていますね。
新井:そうです。日本の公教育以外で格差をなくす平和的な方法はないと思っています。格差を解消する手段として、経済学的なデータでよく言われるのが、「戦争が起これば格差が減る」ということで、、もう1つ希望があるのが公教育です。戦争をしないことを選ぶのであれば、公教育をしっかりするしかないんです。
ちなみにアクティブラーニングは格差を広げてしまいます。それは、戦後最初のアメリカ主導の学習指導要領である、デューイ式の「生活単元学習」の失敗で明らかになっています。
浜田:やはり環境が整った子が優位になるわけですね。
新井:小学生のうちは比較的ワイワイやっていますが、中学生になると、できる子が言ったことに他の子は追随します。だから、授業を全てディスカッションでやることが素晴らしいという主張は、現場を見ていない人の寝言に過ぎません。あるいは、学習指導要領の歴史をきちんと踏まえていないか。中高一貫校から旧帝大や早慶に進んだ官僚が増えると、多様なクラスメートと交流してこないので、こういう夢物語が増えて困ります。
〜なぜ理系分野に女子が少ないのか
【女子が理系分野に少ない背景には、評価システムの問題もあるという。】
撮影:今村拓馬
浜田:少し違う視点の質問をさせてください。新井さんは著書で、数学など理系的な勉強にも「読解力」が必要と書かれています。日本に限らず、アメリカでも理系には女子が少ないことが問題とされていますが、女子は国語の点数は良いわけです。でもなぜそれが数学的な読解力につながらないのでしょうか。
新井:今回のPISAの調査でも、女子の方が読解力も成績全般も良いんですよ。女子はどちらかというとストーリードリブンな読解的能力が高すぎるんだと思います。なので、そちらの方により自己肯定感を持ちがちになるというのが1つ。
あとはいわゆる理系の評価基準が、例えば「社会貢献したか」よりは「どんな論文をどれだけ通したか」「難しい積分の計算をどれだけしたか」など競争的なものが多いなと感じています。そういうものに女子は興味を示さないのかなと。むしろ実際に問題を解決し、人の役に立つことに関心を持ちやすいのだと思います。
私も今現在、理系の仕事をしていますけれど、自分自身も居心地が良くないんですよ。私がやっていることは、男の人が作った理系の評価体系のようなものの中ではどの分野もストライクゾーンではないんです。「ロボットは東大に入れるか」(通称:東ロボ)も、基盤的・汎用的読解力を短時間で高精度で診断するリーディングスキルテスト(RST)も、災害がさらに増えると思われる時代に避難所となる学校のホームページを無償提供するedumapも、どれも自分としては大変成功しているし、社会課題も解決していると思うんですけども、「それはどの分野の研究ですか?」と問われると、分野横断的で何とも言い難い。
浜田:理系的な素養がないと評価されづらい時代になってきています。数学に苦手意識を持っている女子が、社会に貢献したいと思っていても、その前に門前払いを食らいかねないことを危惧しています。
新井:先日中学生に対して数学の授業を行った際は、数学を読解の問題として捉えて、特にストーリードリブンな読み方をしている女の子に対して、“正確に読む”方法論を伝えました。文章から適度な距離を保ちながら正確に読む読み方と、小説のように入り込んで読む、その両方の読み方ができると、この先の選択肢が広がるよと説得しました。
実は、数学が好きだと思っている男の子も、私の授業では大体はつまずくんですよね。もしかすると、単に計算問題をパズルのように解くのが好きだったのかもしれませんね。数学が得意な子も不得意な子も、数学を読解の問題として捉え直すという授業を心がけています。
この授業を参観した国語の先生が、「数学の授業で読解力を扱うことに衝撃を受けた」という感想を寄せてくれました。読解力は国語だけで背負わなければいけないと思っていてつらかったと。社会、理科、数学、家庭科、それぞれの科目の授業を読解という観点から見直せたら、きっと読解力は上げられると思います。
「恵まれた読解力を持つ人は社会のために使うべき」
浜田:私が新井さんの著書の中で最も印象的だった言葉が、「恵まれた読解力を持った人は社会のために使うべきだ」というフレーズでした。
新井:私は、読解力に関する2冊の本の印税は一切受け取っていません。教育のための科学研究所の活動や、読解力を測るためのリーディングスキルテストの開発、災害時に小学校を守るedumapの活動に提供しています。
私自身、ずっと公立の学校で塾にも通わずここまで来られたのも読解力のおかげだと思っています。私は幸運だった。その力を私は子どものために使いたい。
ですが、読解力のない人を貶める人々の多くは、優れた読解力があるのは、自分が努力した結果だと思っているのではないでしょうか。だから、努力しなかった人のために自分のお金を使いたくないという人も多い。努力できることも非常に恵まれた資質で、今自分のアイデアを活かしてお金を稼げている人は非常に幸運なわけです。その幸運は、格差をなくすために使うべきだと私は思っています。
社会課題解決のための研究・技術であって欲しい
浜田:読解力の低下一つとっても、テクノロジーの発展と密接に関係しています。私たちはテクノロジーとどう向き合えばいいのでしょうか。
新井:今、イノベーションがいろいろな意味で求められていますが、多くのイノベーションが技術革新だと思われがちです。イノベーションとは本来、社会や経済を良い方向に変えるためのアイデアが社会実装されて社会が動いていくことだと思います。
そう定義した際、研究のための研究、技術のための技術ではなく、本当に社会問題を解決するための研究、技術であって欲しいなと思っています。
特に子どもたちはお金も声を上げる術もなく、自分がどんな状況に置かれているかすら分からず、前の世代と比べることもできない。子どものために声を上げてくれる政治家は滅多にいない。票になりませんから。
メディアも企業も子どものために本気で投資してくれない。子どもの数は減っていくばかりで成長分野ではありませんから。つまり、子どもの問題って「共有地の悲劇」なんですよ。
子どもの読解力低下は、必ず数年後に企業の採用や研修のコストとして、あるいは税収の低下として跳ね返ってきます。そのときになって嘆いても遅い。子どものことを現場に行って考える人がもっといて欲しいなと思います。
(聞き手・構成・浜田敬子、撮影・今村拓馬)
新井紀子:一橋大学法学部、イリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学大学院をへて、東京工業大学より博士(理学)を取得。専門は数理論理学。2011年より人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトディレクタを務める。2018年に出版した『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』は大川出版賞、石橋湛山賞など多の賞を受賞。
ネットにあった記事です。
全てが当てはまるとは考えていません。ディスレクシアのお子さんもいれば、聴覚にハンディーを持っているお子さんもいます。
ただ、もっとも共感出来るのは、就学前にいかに多くの大人や異年齢の友だちとの間で語彙を増やすことが出来るのかということです。
【オルタナティブ・スクール とも】の児童発達支援を0〜5才としているのは、長年保育所保育士として勤務し0才時からの言葉の取得を目の前で観てきたからです。発達に凸凹があったり、視覚障害をもつお子さんや聴覚障害をもつお子さんも保育所の中には当たり前のように一緒に生活してきました。
五感のどこかかに障害があっても他に感覚で補う力を見せつけられてきました。
「言葉のシャワーをあびせる」という言い方をしますが、何才になっても言葉のシャワーをあびせながら対話をすることは人の発達にとってとても大切です。
私が出会った聴覚障害をもつお子さんは、私の口を読み、身体で振動を感じ、友だちとも手話なしで対話していました。
同じく視覚障害をもつお子さんは、医師が「一生、光を感じない」と診断されていたにも関わらず、1年後にはまるで見えているんじゃないの?というぐらい段差を平気で歩くようになりました。医師の診断は「光を感じいるかもしれない」に変化しました。
大人は、子どもの可能性を信じて、子どもに寄り添いながら、共育(教育とは違います)、介入をしていくことが大切だと改めて思いました。
さー今日からまた、子どもたちとたくさんおしゃべりします!
(もちろん、5w1hを意識しつつ、平易な言葉と少し難しい言葉も織り交ぜながら、数も意識出来るような、【オルタナティブ・スクール とも】で日々大切にしている、会話を中心にしながら、時には視覚的に示したり、嗅覚・触覚・味覚にも絡めながら、楽しい!を大切にです。)